8日間のキリスト教的ヴィパッサナー瞑想に参加して   

「黙想会で、単に祈りに親しむというということではなく、霊的な生活を身につけたい。直接的な主との関わりをもっと密接にし、祈りを深めていきたい!」
母を天国へ見送ったばかりだった自分はそんな思いで(ごめんなさい)半ば衝動的にこのプログラムに応募しました。 たまたまヨガを習い始めていた自分でしたが、正直に言って、キリスト教にヴィッパーサナー瞑想という東洋的な手法に違和感がありました。
ところが、プログラム初日に、「心は神を求めていますが、身体は既に知っているのです」「人が必要な恵みは既に100%あなたに与えられています。それに気づいていないだけなのです。」という柳田神父さまの言葉が、この瞑想法へ挑む私の背中をぐいっと押したのです。 手渡されたテーマの言葉は「気づき」でした。

今、8日間の修行を終えてみて、この手法が東洋のものだという認識は影をひそめました。 宗教や地域を超えた絶対的な価値を見たからです。 自分の思考からエゴを分離し、思考を導く前の、感覚のみを抽出して観察する。 もしくは感覚がエゴを通して思考に変化する直前に断ち切るという訓練を、精神的にも肉体的に自分を追い込みながら、繰り返し繰り返し行うというものは、ちょっと体育会系の印象もありましたが、体力のない方、障害のある方でも十分に習得できるという懐の深さにも感銘を受けました。 訓練の結果、全ての事象を純粋にあるがままに、分け隔てなく受け入れるということも自分なりに、一時的にでも到達出来たと思います。 こうやって、真の自己と向き合うと、祈りも深くなることも実感することができました。 そして祈る視線の先には、分け隔てなく人間を慈しんで下さる方が大きく手を広げていらっしゃる気がします。


 人間の苦しみの構造から真の自己を解放するということから、今やヴィッパーサナー瞑想が欧米でも、日常のみならず、さまざまな医療の現場でも取り入れられているというお話しも医療現場に勤める自分としても大変興味深いものでした。 今日から私の生き方は変わる、変えてみよう。・・そんな思いを秘めて「今・ここ」「今・ここ」と念じながら、こころを整える・・・そんな日々が始まります。

瞑想の終了を知らせる「チーン!」という音で肩から指まで衝撃が電流のように走って、飛び上がったあの感覚を忘れずにいたいと思います。