『私の俳句雑記』 by IRENE (その1)

長い期間ではありませんが、母IRENEは俳句を作っていたことがあります。 実家の父親の指導を受けていたと聞きました。 今から何年も前、母が原稿用紙に書き自室にうちすててあったものを私がワープロに収めました。 IRENEさんの承諾を得たので数回にわけてここにご紹介します。  今年もあと数か月で終戦記念日がやってきます。 

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私が俳句を始めたのは実家の父の影響である。 父は学生時代に句作をはじめ、青木月斗に師事し、晩年深川正一郎氏の句会に加わったりして、句集も何冊か作り、日本○船を退職したあと社長をやっていた子会社の印刷会社で印刷したりしていた。 ある時私は高浜虚子の歳時記を父から贈られた。 何となく眺めて居るうちに私にも出来そうな気がして、紙に数句を書いて父に見せたところ、丹念に直して呉れたのが始まりであった。  しばらくは高浜虚子のいわゆる「花鳥風月」を自分で勉強した。      
  その頃の一句  
      送り出て 庭暮れ残る 藤の花
そのうちそれに物足りなくなり、道部順という人がやっていた「生活俳句」というのにのめりこんで、「冬雁」という同人誌に投句した。 ほどなくして入選したりしたが、またしばらくすると、こういうのは修養が足りないのではないかという気がしてきて、うろうろして居るうちに、全然句作ができなくなった。 句会には出たことはないが、やはり俳句の根本は「花鳥風月」だと思っている。 
旧作を書き連ねているうちに、戦争回顧のようになってしまったが、私の歴史のひとこまだと思って書いてしまった。
    冬雁入選句
   間引き菜や 今宵の汁に 足らうべく 
百姓仕事は子供の頃、人がやっているのをよく見ていたので、見よう見まねで家の裏庭にある果樹園の下を耕して、始めは小松菜など種の手に入ったものは何でも蒔いて見た。かぼちゃ、いんげん、きゅうりなどは結構食べられた。 しかし茄子やトマトは肥料が足りないので、うまくいかなかった。

   製粉機 まわすにうみて 春燈くらく
第二次大戦の末期 食料はますます乏しく、やっと手に入れた小麦を、台所にあったコーヒー曳きで粉にして、僅かばかりの蒸しパンをこしらえた。  灯火管制のため、あかりはやっとものが見えるぐらいだった。

   なんとなう 見に来る芋を 植えてより
   水足らぬ きゅうり曲がりて 今朝の秋      
                               つづく

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