Tony叔母の記憶:富士丸撃沈1943年【続編2】


私たちの母IRENEさんの一歳下の妹Tonyさんが戦時中の1943年、台湾から帰国中、船が撃沈され、九死に一生を得てから助けられた駆逐艦内で預かったという親にはぐれたお子さん。 そのお子さんらしいという方(bikkuriさん)と連絡がついてから、Tonyさんの長男のHISACHANとメールが飛び交いました。

私   「HISACHANからメールがきたわ。 2008年2月16日付の私のブログに載せたTony叔母様のメールの内容より、もっと詳しい様子を記した叔母様の文章があるそうよ。 当時、郵船の台北支社に勤務されていた父親のK次郎さん宛てに事件の数日後に書いた手紙ですって。」
Chris 「おお、それはbikkuriさんのみならず、私たちにも貴重な資料ね」
私   「HISACHAN曰く、『この手紙は遭難直後の興奮の中での文章であり、高ぶったものではありますが、それだけ母親は大変な思いをしたのだと思っております。また、父親あてのものですから、娘としての思いつくままの率直な、拙い書き方になっております。旧仮名遣いですので、読みにくいものでもあります。』ですって。
Chris 「だからこそ、生の情報なのよね。 当時、戦意をそがれるような出来事は全て秘密にしようとしたでしょうに。」
私    「HISACHANもTony叔母様も了解しているというから、この際、ここで公開するわ。 『特定秘密保護法での秘密の開示でさえ60年で行うのだから』ですってよ。」
Chris  「70年も前のことですものね。 私たちの子、孫がこれらを読んでどう思うかしら。 是非話し合っていきましょうよ。」

以下、長くなりますが、Tony叔母様の当時のお手紙を以下に記します。 
「富士丸遭難後にTonyさんが父親に送った手紙」
御心配おかけ致しましたが、お蔭様で無事に帰へって参りました。
内地は今柿が赤くうれ、空は何處までも澄んでゐて、田々は刈入のお百姓が忙しく働いて、全てが秋らしく、しかも静かな景色です。  かうやって、前の様に六畳の二月堂(注①)の前にすわってゐると、皆から大騒ぎして迎へられた事などがおかしくおもへる位です。今あの時の事を考へてみますと、もう遠い遠い昔の様な気がすると共に、その時に受けた多くの人達の親切がよい思ひ出として心にかへって来ます。 これから船客の一人としての体験記を書いてみようと思ひます。  すこし長たらしくて面倒かもしれませんが・・・・
二十四日の午後四時頃 船は抜錨して例の如く堤防の近くでその夜を過し翌朝いよいよ航海が始まりました。  ずっと飛行機がついてをりましたし、割合に呑気にかまへてゐて、夜も度々眼がさめましたが 二時以後は六時半頃までぐっすりねむりました。二十六日午後最後の待避訓練があって、その時大分おどかされ 二十八日門司入港まで夜はまだまだ心配しなければならないとうんざりしました。
その夜十二時すぎドンといふ音におどろいて眼がさめすぐ救命具をつけてゐましたら、ボーイが用意をしておいて下さいとふれてきました。  その中、キナ臭いにほいが流れて来たので ああ爆雷を落してゐるのだナと思ひました。  船は全速力でにげ出し、その中何の音もしなくなったので、もう逃げたのだと思ひ、life jacketをつけたまま横になってゐましたら、ボーイが来て、賀茂がやられたからこれから救助にゆきますと教へてくれました。   みてゐるわけにもいかないし、椅子に坐ってゐても具合がわるいし、その中に靴をぬいで又横になり、眼だけつぶってゐましたら、又ドンと音がしたので、おどろいて靴をはいたらグラグラと地震の様にゆれました。   すぐ訓練の様に下のデッキにゆきましたが、ブザーがならないし、ナンダ沈むんぢゃないのかと呑気にかまへてゐましたら、もうトモの方がしずんでゐますよといはれて、到頭やったかと思ひました。   ボートは一向をりてこないし、その中潜水艦がすぐ近くを潜望鏡を出して悠々としてゐるのに気がつき 皆でウテウテなんて叫びました。   水兵が上でうちましたが あまり近くにゐるので彈がとびすぎてしまふのです。   随分くやしく思ひました。
その中ボートをおろし始めましたが 船が左舷に傾斜してゐるのでひっかかってメリメリとこはれ始めどうしてもをりません。   その時は一寸悲さうでした。   それで急いで三番ボートに行ったら、それは半分程をりてゐて満員です。   飛びこもうと思って甲板のテスリまでお転婆を利用してあがったのですが、ボートはきっとひっくりかへって、かへってあぶないのぢゃないかと思ひ、やめて、トモの方にゆきましたら、丁度縄梯子がさがってゐたので それをつたって下へおりたら白くペンキのぬった木のウキがあったので それにつかまりました。   Tonyがをりるときはもう水面からトモの甲板まで一米位でした。   その中、色々な人があつまってきて、皆で渦に巻きこまれない様におよぎました。   水に入ったのが六時三十分、日が出たのはその頃です。   そして 船の沈むのをみました。   沈んだのは それから間もなくでした。   午前六時四十五分 あの時の気持は何ともいへません。   皆が富士丸万才といひましたが、声を出すと涙が出さうでTonyは黙ってゐました。   船団をくんでゐるからすぐ救けてくれるのかと思ったら、船は何にもみえません。   遠くに鴨緑江丸(編者註:鴨緑丸)の様なのがういてゐるだけです。   その中飛行機がとんできたので、遭難者の様子をみにきたのかと思ひ、気をよくしてゐました。   どれ位ういてゐましたかしら、その中にlife jacketが上にあがってきてくるしくなるし、寒くて歯がガタガタなるし、救けばかりがまたれました(注②)。   暫くしたら鴨緑江丸(編者註:鴨緑丸)が帰ってきましたが一向ボートもおろさないし、近くの人ばかり救けてゐます。   それで近くまで泳がうといふ事になったのですが、潮流が反対でゆくどころか段々はなれてしまひます。   その中船はドンドン遠くへ逃げ出したので、その時の心細かった事。   それに始めかたまってゐた人達もいつの間にかハナレバナレになって、波の上にのらなければ人がみえません。   Tonyの人生も二十四年か、父様や母様がどう思はれるかと一寸考へました。   それでも近くに駆逐が来ましたし、あまり死ぬという事がピーンとこないので これならば救かるだろうと思ひました。   其處に駆逐がみえてゐるのに、カッターをおろすでない、やっぱり近くの人を救けてゐるので、気が気ぢゃありませんでした。   となりの海軍軍人にきくとおろせない理由があるのでせうといはれナットクしました。   それでも、やっと、潮流にむいた方に来てくれたので、皆で泳ぎました。  その時は急に元気が出て 艦のそばについた時は本当に嬉しく思ひました。   約八〜十時間程水につかってゐた様でした。   始め、遠くからみてゐると皆つなで引張あげてもらってゐます。   Tonyはしっかりしてゐるつもりでしたから、あんなのはみっともない等と思ひ、縄梯子を上ろうとしたら、足がなまりの様におもくて中々あがりません。   それでも どうにか登り、後一段といふところでどうにもならなくなり、水兵さんが手を出してくれても、手をのばす事も出来ません。   水兵さんがウーンとかがみこんでくれたのでやっと手を出して引っぱりあげてもらったら そのまま甲板にあおむけに倒ほれてしまひました。   すぐ、life jacketをとってくれました。   一緒の浮にゐた船の人が眼をつぶっちゃ駄目だといって、手をひいて着物をぬぐところまでつれて行ってくれました。   其處で着物をぬぎましたが、どうしてもすっかりぬぐ気はしません。   スリップはぬがずレインコートをかりて下の部屋にゆき毛布をかぶってゐたら 側にゐた水兵さんがぬれたものはぬいだ方がいいよといってくれたのでスリップだけぬぎました。    安心して疲れがすっかり出てノビてゐましたら  乾パンと熱いミルクをくれました。   食慾がなくて食べなかったら元気を出せナンテいってくれました。   その中ビスケット、のり巻、おかゆ等ももって来て大サービスでした。   まもなく 潜水艦がみつかったらしく急に戦闘配置の笛がなって爆雷をドンドン おとして全速力で走り出したので、又どうかなるのかとヒヤッとしました。   後できけば、艦は扉をしめるから沈みはしないとの事でした。  
落ついたところで女は士官室にゆきました。   床にキャンバスをしいてその上に毛布をしき、life jacketのぬれないのをしいて、枕にしてくれました。   Tonyと小泉さんの小母さんとが 手洗にゆくので毛布をきて甲板にゐましたら 艦長がみかねて誰か浴衣をかしてやれといはれ、Tonyは着物がかはくまで艦長の浴衣と帯を借りてゐました。   他の時はさうでもありませんでしたが おにぎりをもらって食べる時だけはみぢめな気がしました。   Tony達は水にぬれましたが、艦では物がありますし、随分親切にしてもらって幸でした。   後で 門司から鴨緑にのり始めからそこに救はれた人の話をきくと、着物はきたままかはかし、食べ物もわるかったさうでした。
親にはぐれた子供、六才位の女 二人、四才位の女 一人、二才位の男 一人とゐたので Tony達であづかりました。   Tonyのは四つ位の女の子でお母さんをしたって泣くのでもてあましました。   もう代用ではきかないのです。   始めは、懐に手をいれたりしましたが 翌日は一日中ないて こっちの方がどうかなっちゃいさうでした。   二十七日の晩 こっちはつかれてゐるので子供がないても、抱いたりするのが面倒でねかしたまま、ほっておくので一向なきやまず困ってゐましたら、此處は皆がねてゐるからといって少尉位の人が他の部屋につれていってくれました。   此方は、それをまってゐる中ねむくなりいつの間にかねてしまったら、朝までその人があづかってくれ、朝 ハイともって来てくれたので、気の毒してしまいました。   夜 全速力で走ったので、せっかく救けたのに又海にはまりこんでもらふとこまるから便所にゆく時は水兵をよんで下さいといって、二人交代でつけてくれました。   夜 十二時交代の人がおこしたら、もうおきるのかとねむそうにしてゐますし、毛布を取上げてゐるので寒い寒いと盛にクシャミやせきをしてゐるので気の毒になりました。   水兵さんに色々な事 頼む人がありましたが、Tonyは気の毒でたのめません。   お茶がのみたくても我慢してゐたので 門司の宿についた時はお茶がおいしくてガブガブのみました。
明日は門司につく様に全速力で走ってゐるからもう安心してお寝みなさいといってくれたり、本当に本当に親切にしてもらひました。   二十八日夜七時頃門司につき、下関にわたって 俵屋とかいふ汚い宿にゆきました。   門司支店へは急な知らせだったらしく 大部あはててゐられ、万事がゴタゴタとして、郵船の評判悪く心配しましたが、神戸でよかったから、お客様も満足されたかと思ひます。   その夜は憲兵と水上警察で面倒をみてくれました。   二十六日の夜から大してねていないので もうねむくてやりきれないのに、一杯何やら書かされ(皆で字が上手になっただろうと笑ひました)、人数は何辺も数へに来るし、ねたのは十二時すぎてゐました。   いい気持でねてゐたら 今度は水上警察からパンの配給だといって、大きなパン一つづつもらひましたが、それですっかり眼がさえて うらめしく思ひました。   翌朝は又、キャラメル一人に十五箱づつもらひ、一つでさえやっとなのにと、おどろきました。   皆、これをお土産にするとよろこんでゐました。  つつむものがないのでTonyが衣料切符三十五点なりフンパツして風呂敷を七人分だけ買ってあげました。
お艦の人は一番上(艦長をのぞいた)が大尉位で皆わかい人達だったので、あんなに親切にしてくれたのだと思ひます。   酒保を大部あらしましたし、士官室の冷蔵庫のバナナも半分以上へずりました。   何となく気持が落つかず、それに世話になった水兵さんの顔も一々はおぼえてゐません。   お礼を言ってこなかったのが気がかりでなりません。   会社から百円もらひましたから、それで何かしてあげたいと思ってゐます。   (お金と衣料切符、お米の配給停止証明は あの袋にいれておいたので無事でした。   お金はイマ ホクホク
多分「潮風」(注③)といふのでせうと桧本さんが言っていらっしゃいました。   又台湾に行く事がありましたらお礼おっしゃって下さい。   N.Y.K.(注④)としても、門司に着く前顔を洗ふ様にと中尉の人がお部屋を貸してくれ、手拭も石鹸も新しいのを出して、その上 クリームまであったので よく気がつくのにおどろくと共に、おかしくなりました。   坊主頭のくせに櫛も、持ってゐて貸してくださいました。
お艦の人達と共に忘れられないのは 浮で隣にゐた海軍さんです。   應召軍医准尉らしく、星が一つもないのに、四十位でした。   その人が 大丈夫か 大丈夫かと度々声をかけて下して、その度に大丈夫ですと返事してゐましたが、それだけでも随分違います。   その中足がつって困ってゐましたら 浮の下につなをわたして足をのせなさいと言って下さったりしました。   翌日 甲板へ着物を探しに来たら、その方がゐて 着物をかはかしてあげると熱い空気の出るところにかけて下さいました。   門司につく前 士官室に来られたので、お礼を言って、さよならをし、Tony達は翌日再び門司に来て鴨緑に乗込み 翌朝 神戸着。   郵船の方が西村旅館に連れて行って下さいました。   富士(注④)をとって頂いて、三十一日の朝 神戸駅から汽車にのったら、一杯なので その中あくだろうと、奥へゆかうとしたら 前の方の海軍さんがフット後を振むいたのでみたら、お世話になった方でした。   そこにすはらせて頂いてゐましたら 隣が大阪で降り その方が浜松で降りられるまでずっと一緒にゆきました。    一緒に助かった人はなつかしいです。   まだその外に富士丸で部屋が隣だった病院船の主計長と、軍医長も乗ってゐました。
應召軍医さんは奥さんが病気で養生してゐられ子供さんがあちこちにバラバラになってゐられる由、家の事にはかまってゐられないから、家の中はメチャメチャで手がつけられなくなりましたと言はれたので、Tonyは気の毒で何にも言へませんでした。   さういふ方達も案外多いのではないでせうか。
一年戦地にゐてなす事もなく帰へて来て申訳がないといはれたので、「でも又この次がございます」と言ひましたら、「自分でもさう思ってなぐさめてゐます。   今度行ったらやりますよ」といはれました。
この方にはげまして頂かなかったら Tonyはどうかなってゐたかもしれません。 (益田とかいはれ、多分二等の方でせう。)それでも一番元気だったわとほめてくださいましたし、誰にでも、一緒のいかだで一番元気だった人だよと Tonyの事いはれました。
大抵の方がアゴをlife jacketですったので、遭難者の目印になりました。   その方のお連も一緒にゐられTonyの事を例の如く紹介されたら どうもアゴにきずがあるのでおかしいと思ってゐたと笑はれました。   此方は塩漬のモンペは借物の鞄の中におしこみ、借物の洋服におさまってゐたので一寸わからない様になってゐましたが(神戸についたら洋服がないので篤ちゃん(注⑥)のおニューを下着からすっかり借りたのです。)
柳瀬さんが会社の代表として来られ Tonyをみて涙を出して喜んで下さいました。   その外 大和丸のパーサー、神戸支店の小松さん、支店長、桧本さん等にもお目にかかり 桧本さんにはお世話になり 小母様もわざわざ来て下さいました。   それから愛さん(注⑥)も。
船客の松宮さんも、お金を持って来て下さいましたが、失礼でフンガイしました。  船をおりたのが十時頃でしたかしら、西村ではお昼ないので 愛さんと近くのウナギ屋にゆき 一寸元町で買物をしたら、もうガッカリしたので 西村に帰へってすぐねました。   夕方篤ちゃんと花ちゃん(注⑥)が洋服をもって来てくれました。 慰問袋の中のシャボンでお風呂に入りさっぱりしました。   夜西村夫妻が来られ、おめでたいから、少しぢみだけど、これをつかって下さいと鶴の風呂敷を下さいましたし、お土産なくしたなら、これを持っていらっしゃいとサワラのお味噌づけを下さいました。
門司でも池上さんと、も一人の方(重盛さんは上京中でお留守)のお世話になりました。   台湾では村山さんと深川さんに随分お世話になりましたから、父様から何卒よろしく。   何處でも大事にして頂いて感謝してゐます。
津脇さんには、到頭お目にかかりませんでしたが第二報国丸の方にゐられると思ひますが、杉山とかいふ京都の方は賀茂がやられた時、心配してゐるだろうと夜中にわざわざ部屋に来て下さって、まさかの時には、みてゐてあげるといはれましたが はぐれてしまひ 軍艦に行ってお目にかかりました。   あの方は何をしていらっしゃる方ですか。   父様から色々きかされて、皆忘れてしまひました。
冗談が本当になりましたが Tonyはお連があったし、駆逐で気をよくしてゐましたので、大して遭難者の様な思ひは致しません。   親類の皆に大騒ぎされて、かへってメンクラッテゐます。   唯少し風邪気味で、まだくたびれてゐて 半日はねてゐます。   三十日に鴨緑で始めて鏡をみて人相が変ったのにびっくりしました。   たった、二、三日の事ですのに、やせて、目が引込んでしまひました。   まだ目は引込んでゐます。   何もかもなくしましたが衣類は少かったし、かへってさっぱりしました。   お船と一緒に昔のTonyも沈めてしまった様な気持ち。   二度とないであろう良い経験をしたと思ってゐます。
西村気付のお手紙拝見
さびたナイフ、赤くなった時計、呼子 そんなものは遭難の記念としてより、大勢の人々の暖い心の記念として残しておきます。   人々の暖い心にふれた事が一番うれしく
船員が先ににげたと評判がわるいです。   それに大阪気質まる出しの人がある事無い事ゐふので シャクでした。   Tonyは今船員が大事だから 殆ど救かったのは非常によかったといってやりました。   又船長は多分船と運命を共にされたと誰かがいったら、そりゃ生きてはゐられませんやと他の人がいふので、機関長が来られ無事らしいといはれたので、亡くなったらおしいと大に言ってやりました。
「帽子がなくなった。」「そんなのなら船員がかぶってゐましたよ」(これもデタラメ)もうそれで、「わしの帽子は船員がとった」といふ事になるのですからアキレます。   パーサーは Tonyは別の部屋にゐて何もしりませんが 大部男をさげた様です。   一寸しっかりしてマゴつかないで下さいよ、ナンテいはれてゐました。   パーサーは書類があるから早くにげるものなのでせうか。   始めてパーサーに会ひ船長はどうなさいましたとTonyがいったのに対して「いや知らない」といはれて、何だか嫌な気がしました。
機関長は最後まで下にゐて いよいよ駄目になった時一人一人機関部の人の部屋をのぞき最後に船長のところに行ったら高山さんが「到頭やった」といはれた由、そして自分達の受持のボートがをりてないので おろさうとしてゐたら波に巻込まれたといっていらっしゃいました。   おデコと背中をうたれ、起居に痛さうでしたが、このお話をきいてスットしました。   高山さんも元気でゐられる事を祈ってゐます。
軍医の方が、あの時エンヂンをとめてゐたのがいけなかったといっていらっしゃいました。   敵は賀茂の下にかくれてゐて、駆逐の探知器に入らなかったさうです。   それに、何時も一隻やればにげてしまふので、油断したところもあったと思ひます。
沈んだところは深くて船は揚げられないさうです。   船がおしいですネ。   鴨緑で神戸に行った時、富士でないのがシャクでたまりませんでした。   富士の人が鴨緑にあがってすぐ鴨緑もうたれたのですから 今度は敵も中々やりました。   それでも運よく不発だったのですから 富士は運が悪かったのです。   機関長が もうエンジンかけるばかりにしてゐたから、もう二、三分のところだったといはれました。  例の大阪のお爺さんが(何をしてゐるのやらオソロシク品がなく、オクサンは片目の長ヤのオカミさんみたい。   そいで ダンナダンナといってゐるのです。)エンヂンとめてゐるの、始めからイカイカンと何辺もいふたのに、とか、賀茂の救助するのに、カーバイトつけて うってくれといはんばかりにしてゐたから そこをやられたナンテいひましたが ウソばかり。   富士のやられたのは、もう明るくなってゐましたもの。   皆 こんな調子なんですね。
又一人のひとは、(新聞者らしい)私にいはせれば 賀茂の艦長が一番イカンといってゐましたが、賀茂はアマミ大島にわざわざ座礁した程ですから船長として富士に移さうと思ったのは無理もないと思ひます。
長々書きましたが御判読下さいませ。   何か参考になれば 幸です。 皆さんによろしく
門司で誓約書書きましたから、この手紙もそのつもりでおねがひします。
Tony 十一月二日夜
台湾帰へりには秋のつめたさが身にしみて、小さくなってゐます。   それにモンペばかりはいてゐたので スカートでは足がつめたくて、ズボンをはいてゐます。
白い毛の靴下は大助かりしました。   あれをはいてゐたので靴はぬげないし、 足もあたたかでした。   和服の方は皆 門司に上る時ハダシ、男の方も靴のぬげた方がありました。
門司で誓約書書きましたが どんな事を言ってはいけないのかわからなくて困ります。_

注:
①二月堂は折り畳みの机です。
②叔母からは、漂流中につかまっていた浮に幼児が載せられていたそうですが、亡くなったと聞いています。
③潮風は駆逐艦汐風のこと。
④N.Y.K.は日本郵船です。
⑤富士は、ここでは、特急?急行?の「富士」のことだと思われます。
⑥篤ちゃんと花ちゃんは本家の従妹、愛さんは、本家の使用人の愛称です。