青野より

通夜の喪主挨拶
本日は平日でお忙しいところ、私たちの母IRENEの通夜に御集りくださり、誠にありがとうございます。 私はIRENEの末の娘でありますが、生まれてからずっと本人とともに生活しておりました関係上、喪主を務めておりますKOINOBORIと申します。 式のさ中ではありますが、ここで少し母についてご紹介をさせていただきたく存じます。 
母は満95歳ですので享年96歳ということになります。大変長いです。ご紹介も少し長くなるかもしれません。あらかじめご了承ください。
母IRENEは大正8年 2月10日にH田K次郎、S子夫妻の長女として生まれました。翌年妹のTONYおばさまがお生まれになったところで父親がシンガポール勤務となりました。船会社に勤務していたためです。母の祖母は海外勤務に幼子二人は大変であろうということで、日本にIRENEをおいていくように強く強くすすめました。 その結果、母IRENEは両親から離れひとり祖父母のもとに預けられました。 それ以来、海外各地への転勤を重ねる両親姉妹と離れて日本にとどまることになりました。 上海勤務のときには母の10歳違いの弟、私たちのY男おじさまがお生まれになっています。
昭和11年母が17歳になったとき父親のニューヨーク転勤が決まりました。 戦前、アメリカが経済的にも社会的にも輝いていた時代です。 父親は当時のアメリカだけは子供たち全員に見せたいと、しぶる祖母を忍耐強く説得し、今の滋賀県大津市にくらすIRENEを祖母のもとから連れ出して家族全員でアメリカに渡りました。 横浜から客船にのり太平洋を一週間かけて渡る旅です。
生まれて初めて自分の親きょうだいと一緒に、豊かなアメリカ、ニューヨークで暮らした記憶は母の生涯でもっとも幸せなものとなり、私たち子どもたちは母が生き生きと語るたくさんの思い出話を心躍らせながら聞いたものです。 しかし、アメリカに渡って2年後に日本に残った祖母の容態が悪くなり、母は看病の為に自ら望んで再び親きょうだいと別れて単独帰国したのでした。 大津の祖母は最愛の孫が膝元に帰ってきた喜びに包まれ、ほどなく他界いたしました。
昭和16年 母IRENEは私たちの父、W田S一郎と結婚しました。 戦時中は父の会社の従業員や焼け出された人を家に招き入れ、大所帯で暮らしたこともあったと聞いています。 戦後、父の復員後、1男2女が生まれました。 当時、海外勤務のため殆ど日本にいなかった父にかわってしゅうとめの面倒をみながら3人の子供たちを慈愛をこめてそだててくれました。 洋裁や刺繍が大好きで、家族の洋服は子も孫もふくめて沢山手作りしてくれました。1年に100着こしらえた事もあったほどです。
私どもの父S一郎は80歳のとき、心筋梗塞で倒れ、母と私はその後3年間介護にあけくれました。 平成4年に父が亡くなり、私と母の二人の生活が始まりました。
平成18年 6月30日に当時58歳だった長男MIKEがガンを患って突然なくなりました。父の死後、もっとも頼りにしていた長男に先立たれた母の悲しみははかりしれないものがありました。しかし、人前で取り乱したり涙をみせることはほとんどない気丈な母でもありました。 
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平成19年 以前から聖書に親しんでいた母は自ら望んでカトリックの洗礼を受けました。
先に洗礼を受けていた長女Chrisや私が、兄がガンを患ったときに教会に救いを求め、足しげくお祈りにいっていたのを見ていたのだと思います。 平成23年 目黒教会のレオ神父さまにより堅信礼を受けました。
この頃から生活に人の手を借りることが一段と多くなってきました。
わたしが仕事で日中家を離れますが、当時の介護保険の恩恵を100%利用し、在宅介護でなんとか頑張っていました。 しかし、年がたつにつれ、それも難しくなり、平成23年は介護施設らいふ蒲田に入居し、そこで2年と3カ月すごしました。 母は認知症が進んでいましたが、問題行動や家に帰りたいと言うことは全くなく、大変な優等生でありました。

今年の2月に老衰で食事が摂れなくなってしまいました。 元気だったころからの本人の希望もあり、胃ろうなどの不自然な延命措置は取らず、点滴のみで命つないでいる状態になりました。
今年の4月に容態が一時わるくなり中目黒の共済病院へ入院いたしました。共済病院は父が逝き、長男MIKEも逝ったいわば一番慣れ親しんだ病院です。 更にそれから1カ月を経て、最期をむかえました。
その頃の家族の願いは、苦しまず、やすらかに眠るようにおくることでしたが、多くの方の祈りによってそれは実現いたしました。 特に今日式を司ってくださっている川口神父さまには、今からちょうど一週間前に病室で家族も参列し、病者の塗油という、クリスチャンにとっては大切な最後の秘跡を授けていただきました。 そして本人とそばで見守る家族の為に皆でお祈りをいたしました。
こうして母は最後まで体調が激変することなく、徐々に呼吸が弱まりそのまま永久の眠りについたのです。 最後の病者の塗油から4日後にあたる5月16日朝7時15分、家族の見守る中のことでした。
今は悲しいという感情というよりも、母が95歳という長い人生を本当に全うして天に戻って行ったことへの感謝の気持ちでいっぱいです。 
生まれた時からずっと一緒にすごした自分の事を言わせて頂くと、今、実感がわかないというのではなく、喪失感がないのは、自分がずっと神様と一緒にいたからです。
死への恐怖、別離の悲しみが襲ってこないのは、母が最後に私をぎゅーっと手を引いて引き込んでくれた神様の愛への信頼にほかなりません。
母の意識が遠のいてから時間が長かったのは、きっと母にそんなお役目があったからだと思います。

母の生涯は多くの方々に支えられています。
先程お話した母の生涯については母の回想療法と称して私が母から聞きだし、ブログに紹介していました。 そのブログをとおして大きな輪がひろがっていきました。今日、ここにおいでくださっている親せきの方々の多くがコメントを入れて下さり、母もそれを読むのを大きな喜びとしていました。
また、母が介護を受ける生活になってから、目黒教会に集まる方々にも沢山お祈りをしていただきました。ここにいらっしゃらない方々にも沢山のお祈りをしていただきました。それらが介護をする家族の心の支えとなりました。今日は母のお見送りをする通夜ではありますが、母や私たちを支えて下さった多くの方々への感謝をあらわす日でもあります。
また、お忙しい中、お手伝いや美しい声で聖歌を歌ってくださったり、オルガンを演奏下さる目黒教会信者の皆さま、ありがとうございます。
私たち家族は、皆様の為、目黒教会の為、川口神父様のいらっしゃる高輪教会の為にこれからも祈り続けたいと思います。 本日は誠にありがとうございます。

あとがき
母にならって、句を四つ作り、書いてお棺に入れました。 4つとも、母の病室の真下にある公園で皆でピクニックをした思い出からイメージしました。
IRENEさん、また容赦なく添削して送り返してください。 でなかったら私がそちらへ行ったときまた手ほどきしてくださいね。
    「逝く人を 青の野辺にて 思ひわび」
    「青野にて 遺されし子の ピクニック」
    「青野より 旅立つ人を 見上げおり」
    「青野にて 遊ぶさなかに 遺児となり」

    稲穂

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