大津の家(1924〜1936)

私 「大津ではどういう子供だったの?」
母 「普通よ」
私 「ちがうでしょ、 学校へは人力車で通ったとか?」
母 「それはない。 小学校のときは女中がいつもついてきたけど。」
私 「女中さんが何人いたの?」
母 「3人だったかな、4人だったかな? そのうち上女中がひとりか二人、あとはお台所に一人。」
私 「他は?」
母 「じいやがいて、ばあやもいた。 それと使用人たちをマネージメントしたりするマスダっていう人がいた。」
私 「執事ね。」
母 「使用人たちはご門を入った右手奥にある長屋に住んでいたの。」
私 「学校へ行ったお母さんにお昼のお弁当を届けたってのは?」
母 「じいや。 お昼前にお弁当を持って小使い室に座って待っているのよ。 お昼になると私は小使い室に行って、じいやの膝の上のお弁当取ってくるの。」
私 「お母さんの幼馴染のおばさんが、『あんたのお弁当だけホカホカ湯気がたってたもんな〜』って言っていたわね。 学校へはちゃんと通ってたの?」
母 「休んでばかり。 だってちょっとでも「コン、コン」と咳でもしようもんなら、おちょうおばあさまが『やすみなさい』ですもの。 小学校の修学旅行はおばあさまが『行かんでよろし』、で行かなかった。 ま、お伊勢参りだったけどね。 そんなこんなで出席日数が足りなくて進級も危うかった。」
私 「あれ、この写真、お母さん自転車に乗れたっけ?」
母 「乗れない。練習したけど、だめだった。 この写真はよ〜く見るとスタンドが立ってるわよ。 おばあさまにも『乗れるようになりなさい』って言われてはいたけど、基本的に危ないことは一切させてもらえなかった。 琵琶湖が目の前なのに泳がせてもらえなかったし。」
私 (唖然・・・・)
母 「さすがにK次郎おとうさんが『ちゃんと泳ぎぐらい習わせてやってください。 乗ってる船が沈没でもしたときはどうするんですかっ』って抗議していたわ。」
私 「ねえ、それでなんとも思わなかったの? 不自由だなとか、横暴過ぎるだとか?」
母 「ぜんぜん。 言いつけには従うものだって思ってたから。 昔はそういうものだったのよ。」
母IRENE は素直で、従順。 おちょうおばあさまにとってはものすごく育てやすい子供だったみたいです。


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