1933年上海

8月の8日からは北京オリンピックです。 テレビニュースでも現地の準備風景が頻繁に紹介されています。 それを見ていて・・・
私 「天安門だわ。 でも見てよ。 景色が薄茶色に霞んでいるわ、空気悪そう〜。 この空気の中を走らなければならないマラソンの人が心配だわね。」
母 「環境とか、衛生とか、日本だって昔はおかまいなしだったもんね。 だんだん規制がきびしくなるわよ。」
私 「ねえ、中国のどこかで、家の中にトイレがなくて木の筒みたいなもんがおいてあるだけってどこの話だっけ?」
母 「昔の上海よ。 私が学校の夏休みに上海の家族のところへ行ったときよ。 部屋に入れ物がおいてあるだけで、毎日それを人が取りにきて、きれいにしていくの。 私、それを見ておっどろいちゃったんだけど、現地の人は、『日本のみたいに中味をためないから、こっちのほうが衛生的なんだ』って言うのよ。
私 「はぁ・・・!?」
母 「でもね。空になった入れ物を家の外でしゃ〜って水で洗うのよ、排水溝があるわけでもないのに。 」
私 「うっひゃ〜っ、のけぞっちゃいますね。」

ごはんどきにびろうな話ですみません。 そんな話から、母の回想は昭和8年に行った上海にスイッチが入りました。
KOINOBORIの母方の祖父のK次郎さんは、そのとき郵船の上海支社に赴任していたのです。

大津の祖父母のもとで暮らしていた母IRENE は、たまたま帰国していたS子おかあさんとTONY とYASU と一緒に夏休みを過ごすために上海に行ったのでした。 船は浅間丸です。

左:浅間丸のデッキにて、母IRENE  右:S子おばあさまとTONY叔母さん、YASU叔父さん

日本郵船 浅間丸 (三菱重工ホームページより)
母は、ひと夏しかいなかったのに、上海の事はよく覚えているみたいです。 2004年には上海に単身赴任中だった兄MIKE を訪ねて皆で上海に行きました。 そのときに皆で母の記憶をたどり、昔、母の家族が住んでいた日本租界の阿瑞里(あぜり)に行ったり、YASU 叔父さんが生まれたという病院、TONY 叔母さんが通っていた女学校、YASU おじさんの小学校を訪ねました。 すっかり様子は変わってしまいましたが、ところどころに当時の面影をしのばせるものがあり、母は盛んに懐かしがっていました。

上:1933年頃の阿瑞里 靴屋

上:2004年 旧阿瑞里を歩くIRENE と長男MIKE 夫婦。 すっかり様子は変わってしまったが、特徴ある門柱はそのまま。


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