『私の俳句雑記』 by IRENE (その3)
今から何年も前、母が原稿用紙に書き自室にうちすててあったものを私がワープロに収めました。 IRENEさんの承諾を得たので数回にわけてここにご紹介しています。 今年もあと数か月で終戦記念日がやってきます。
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敵機来襲 夏空切りし 探照灯
昭和20年3月10日東京の下町一帯はB29の大規模な空襲を受け、10万人以上のひとが火や煙に巻かれて亡くなった。 その後だんだんに山手方面に迫ってきて、5月の20日過ぎであったか、夜になって空襲警報が鳴ったので外に出て見ると、西の方からB29(当時のアメリカの最大の爆撃機)の編隊がこちらの方向に飛んでくる。 夜空をなめるように探していた何本ものサーチライトが、たちまちその中の一機を捕らえたと同時に高射砲弾が炸裂し、飛行機はものすごい爆音と共に急上昇し、そのままの姿勢で垂直に墜落した。 見る見るうちに西の方角に火の手が上がり、一面に火災が起こり夜空を焦がした。
(私たちの家のある)下代田(代沢一丁目の旧称)あたりが焼けたのは5月28日の夜であった。 三軒茶屋から駒場にかけて、帯状に焼夷弾を落とされ、商店街も住宅地も全滅した。 下北沢に居られた長三叔父様が見舞いにきて下さり、火の粉が降るなかを梯子を架け、バケツに汲んだ井戸水を二階の雨戸に何杯もかけて下さった。 叔父さまも私も頭からびしょぬれになった。 類焼するときは、前には居られないほど熱くなるのだそうだが、崖っぷちの92番地が焼け残ったのは全く神様のお助けと言うより外にない、急に風向きが変わったのであった。
その夜はだれも一睡もできなかった。 うちの前の道を次々と焼け出された人たちが逃げてくる。 みんな防空頭巾をかぶり、殆どの人が荷物を何も持っていなかった。 義母の命令で門の前に小さいテーブルを出し、大きなやかんに井戸水を汲み、コップをいくつも並べた。 何時間も火の中を逃げまどって来た人たちはよろこんで水を飲んでくれた。 中には前々からの約束で、寝たきりの老人を火の中に置いてきてしまったと言って泣いている人が居て、何とも言えない気持ちにになった。
つづく