『私の俳句雑記』 by IRENE (その6)

今から何年も前、母が原稿用紙に書き自室にうちすててあったものを私がワープロに収めました。 IRENEさんの承諾を得たので8回にわけてここにご紹介しています。 
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正昭(MIKE:管理者注)に続いて、年子でJ子(chris:管理者注)が生まれた。 その時の実家の父の祝いの句は
   麦蒔きも 終えて母屋の 祝い事
それからは、敗戦後の預金封鎖、新円切り替え、財産税、その後に来た相続税と、主人は大変な苦労をした。  殆ど無一文になったと言った。  しかし数百坪の土地は何とか残り、三人の子供達は小さい時から、家の前の芝生と裏の果樹園の栗、梨や柿の木の下を、友だち達中と駆け回り、飯ごう炊さんをしたり、その頃のはやりのアメリカ映画をまねて、「オーケー牧場の決闘」などというフイルムを父親の8ミリを借りて作ったりして、楽しい子供時代を過ごした。  丈夫な体を作るのに、役だったと思っている。
裏庭に兄MIKEと親戚のショウゴちゃんとで作ったおうち。 柱と屋根だけでできている。 飯盒炊飯でごはんを作って皆で食べた。 手前のチビがKOINOBORI。 この写真の撮影直後に屋根が落ちて大騒ぎになった。(管理者注)
姉chrisと親戚のマチコちゃんと表のお庭でごはんつくり遊び。 KOINBORIは食べる役のみ(管理者注)

















世の中も少しずつ落ち着いてきた昭和26年、世界の市場を視察するため、主人は世界一周の旅に出た。   太平洋を超えるのに、ウエーキ島とハワイに寄って給油しなければならないプロペラ機であった。   その後何回かの現地視察の後、29年正昭が小学校にはいるための試験の前、主人は通産省許可第一号としてブラジルに会社を設立するために、5,6人の社員と共に赴任した。   全員単身赴任であったので、サンパウロに一軒家を借り、賄いに日本人の小母さんを頼んでの、合宿生活であった。   
幸い正昭は学芸大附属の小学校に入学できたが、3年生の時、夏休みに一時父親が帰って来ただけで、6年生卒業前まで帰らず、家は義母とお手伝いを入れて六人暮らしが続いた。   
義母は元気な働き者で、物事に余りこだわらない人であったが、糖尿病と胆嚢炎を患い、入退院を繰り返した。   「具合が悪くなったら入院させろ」というのが主人の残した言葉であった。   今とは違い、電話などは当然かけられず、相談の手紙を出しても返事が来るまで一ヶ月はかかったので、返事が来ても、良い悪いに関係なく、物事は解決済みであった。   
主人がいよいよ帰国するのを羽田に出迎えたとき、末娘のK子はタラップを降りてきた主人を見て「あの色の黒い人は誰か」と思ったそうである。

 豊島小学校の父兄会誌に載った私の句。
   たつき守る 我に閑あり 落ち葉焚く
   落ち葉焚く ひととき我に 子らの群れ
   新書買いて あおぐ寒天 星をちりばめ

                          つづく



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