『私の俳句雑記』 by IRENE (その7)

今から何年も前、母が原稿用紙に書き自室にうちすててあったものを私がワープロに収めました。 IRENEさんの承諾を得たので8回にわけてここにご紹介しています。 
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義母が三年の寝たきりの病の後、宮内庁病院の静かな早春の病室で亡くなった。 78歳であった。  主人はA斎場で立派な葬儀を行った。  義父の会社設立の時から、苦楽をともにし、今社長として活躍している息子に、盛大に送られた義母は、さだめし満足であったことと思う。
   いま少し いませば春の 来たらんに
昭和47年に実母S子が亡くなった。  晩年リューマチにかかり、その治療のために服用した副腎ホルモンのために、脳内出血を起こして意識が薄れ、病院を転々としなければならなかった。  父は80歳を超えていたが、そのたびに入れてくれるところを探して歩き、毎日病院に見舞った。その体力と気力は見上げたものだと思う。

昭和49年に長女純子が結婚した。  父は大層喜んで、東京での披露宴に出席し、「純子」の名前をきめたいきさつなどを披露した。この字を書いて「すみこ」または「たかこ」と読ませるつもりだったが、義母が「じゅんこでいいじゃありませんか」と言ったので、この名前にしたとの事であった。

   さわやかに とつぐ娘の髪 なでやりぬ
   言い聞かす ことまだありし 秋袷

 (ウエディングベル鳴りたれば) 神の声 響くがごとし 秋天

 (里帰りを送りて)  夫許(つまがら)へ 帰り行く娘に 秋深し

翌年に初孫のK(Clare:管理者注)が生まれたときも父は大喜びで
   めはじきや 一姫にして 初ひまご
と祝ってくれた。

初孫が生まれたときの私の句
   白み来る 窓さわやかに 開きけり
昭和50年5月長男正昭が待望の結婚をした。 正昭と同じ高等学校に通い、英文科を出たS山T子(dozi:管理者注)である。  頭も良く、気だての良い子であったので、主人は大層気に入って、「正昭に下さいとお願いに行く」と言って二人で先方へうかがった。  世田谷のお離れを新居と定め、椅子やテーブルを調えた。  うちもやっと二人の子供を結婚させ、一家としてととのってきたので
主人も私も幸せを感謝した。
 私の祝いの句
   夏蝶の ふたつ飛び立ち ひかりけり
                      つづく



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