北米大陸横断鉄道1936年

昨夜のメニューは豆乳鍋。東京もここんとこ冷え込んでいて、鍋しか思いつかない。腰痛のため、一日ベッドで横になったままナンクロに取り組んでいた母も、起きて一緒に湯気の前。私はお酒を頂いて饒舌に。こういうとき、おちょこ一杯の母が同じようにおしゃべりになります。
話題は戦前、母方の祖父の仕事の関係(船会社)でアメリカに転勤になったとき、母が初めて自分の両親、妹弟と全員一緒で暮らした数年間のことに。十代後半の田舎娘にとってこの海外生活は一生の宝物。
殆どが海外勤務であった祖父。母の生れた翌年に妹が生まれ、祖父の母が「赤ん坊二人では海外勤務はきつかろう」と母だけ手元に預かったのでした。ハタから見ると母はいわば「人質」。祖父は仕方なく、母だけ日本に残しシンガポール、上海・・と海外勤務を重ねたのでした。 母が18歳のとき、祖父はアメリカ転勤になり、「アメリカだけは子供全員に見せよう」と母を迎えに行き、今度は家族全員でアメリカに向かったのでした。
「横浜から船でね、サンフランシスコに着いたでしょ。ロサンゼルスを見に行ってから、汽車でニューヨークまで行ったのよ。 シカゴで一日休んでね。5日かかったの。」
「良く覚えてないんだけど、蒸気機関車だったと思うわ。アメリカだから線路の幅が広軌でしょ。だからエライ速度で走るのよ、それは揺れて揺れて。日記を書いてたのに汽車じゃ字も書けなかったワ」
「それに周りは砂漠みたいなとこだし、小さな手のひらくらいの窓があってね。ちょっと開けたら、砂がわ〜っと入り込んで、お父さんに「開けるな〜っ!!」って叱られたわ。」
雄大な景色を望むコンパートメントでおおはしゃぎの子供達3人と若き祖父母の姿がわたしにも見えるような気がしました。