『私の俳句雑記』 by IRENE (その4)

今から何年も前、母が原稿用紙に書き自室にうちすててあったものを私がワープロに収めました。 IRENEさんの承諾を得たので8回にわけてここにご紹介しています。  今年もあと数か月で終戦記念日がやってきます。 

          **************************
朝方になって火の手がおさまって来ると、今度は急に空腹を覚えた。 夕食もろくに食べず、空襲警報で飛び出してしまったのだ。 私は下の物置の中のかまどでご飯を炊き始めた。  ご飯と言っても半分ほどは大豆粕(大豆を絞って油をとったあとの粕、普通は肥料にするもの)がはいった配給米である。 だがその時はとても美味しく感じられ、貪るように食べた。 しかしびろうな話だが、あとで全然消化せずそのまま出てしまった。
あたり一面は焼け野原になったあと、残った家には焼け出されて困っている人達を入れることになった。  義母は、やたらな人を入れられては困るからと言って、こちらから町会へ申し出る事にした。  やって来たのは若い育ちのよさそうなご夫婦だった。 お玄関の右のお茶室に入ってもらった。 
その後義父と主人の会社の千駄ヶ谷の社員寮の人たちも、うちに来ることになった。 5.6人の男の人は下のお茶の間に、8,9人の女の人は二階に入ることになり、下のお女中部屋に賄いのおばさんとその娘(やはり社員)さんが居ることになった。  私とおばさんは下の物置の中のかまどと、七輪ひとつで、かわるがわる煮炊きをした。相変わらず配給は少なく、食べ物は少なかったが、みんな助け合って暮らした。   8月15日の終戦の日のあともしばらく続き、そのうち賄いの小母さんの息子が海軍少年航空隊から帰ってきたりした。  若いご夫婦というのは野田惟恵さんと光枝さんである。ご主人は彫刻家、奥様はヴァイオリニストで、今でも年賀状のやりとりをしている。
敗戦の日から一年足らず経ったとき、突然主人S一郎が帰ってきた。  上海で現地召集になり、そのまま、中支の方に転戦したらしいとの噂だけしか、分からなかったのだから、まったくびっくりして、義母のところに行き、「おかあさま・・」と一言いうのが精一杯だった。  荷物はリュック一つであった。 大島T造さんが付いてきて下さり、「今日突然会社に帰ってこられまして、皆びっくりしました」と言われた。 電話を始め、通信手段は、全くないので仕方がないが、まずは元気そうで、本当に良かったと感謝した。 義父母の喜びようは事の外であった。

   憂きことは 語らず海苔を 焼く朝餉

   憂きことの ひろごり消ゆる 芋を植う

   春泥を いとわじ君と 並び行く
      (この句は父によいと言われた。)



                     つづく







ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ポチっと押してくださいませ。