Tony叔母の記憶:富士丸撃沈1943年

朝食を前にして、
私 「2月14日のブログに書いた秩父丸の救命胴衣の話で、思い出したってTONY叔母さんからメールを頂いたわ。ほら、叔母さんが半日海を漂流していて九死に一生を得たという戦時中の富士丸撃沈事件の事よ。 記憶を辿って書いてくださったの。」
母 「戦争であの人は一番ひどい目にあったのよ。あら、眼鏡をベッドサイドにおいてきちゃた、読んでくれる?」
以下、引用です。
『KOINOBORIさんのブログの「秩父丸 1936年(その3)」に書かれていた救命胴衣と言えば、私には忘れられない思い出があります。
私は、父母姉弟との秩父丸での渡米から7年8ヵ月後の昭和18年10月、当時、郵船の台北支店に勤めていたK次郎お父様に連れられて台北を訪ねての帰り、10月24日の夕方、一人で、台湾航路の富士丸に乗って内地への帰途につきました。
もう日本にとって戦況が悪化していた時期でしたので、駆逐艦1隻に守られ、郵船の富士丸と賀茂丸の2隻と大阪商船の鴨緑丸の計3隻で船団を組んでの航海でした。基隆港を出港して、しばらく、港の外で様子を見るために停泊した後、内地に向けて出発しました。一行は馬力が小さい賀茂丸に合わせざるを得なかったので、遅い航行でした。富士丸には、一般客のほか、3等船室には、交代で内地に戻るのか、海軍の水兵(?)が乗っていました。
出発後、船客はボートでの退避訓練を受けさせられたほか、乗組員から、このブログの「秩父丸 1936年(その3)」の項にある写真と同じ形の救命胴衣を着けた上、靴を履いたまま、船室で寝るように言われていました。
そして、10月27日の午前一時頃、船団が奄美大島沖に進んだ際に、速度が遅かった賀茂丸がアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて航行不能になりました。そこで、富士丸が賀茂丸の船客や乗組員の救助に当たりましたが、その最中の午前6時頃、今度は富士丸自身が船尾などに何発か魚雷攻撃を受けたのです。
船体が地震みたいにガタガタ揺れ、ものすごい音がしたので、私はあわててデッキに出て、前日、訓練したボートのところに行ったのですが、ボートが下ろされるのを待つ間、船から10メートルくらいしか離れていない場所に、アメリカの潜水艦の潜望鏡が1メートルくらい海面に出ているのが見えました。既に船が傾いていたので、結局、ボートは引っかかって降りてこず、止むをえず、船尾に行ったら、船尾はもう海面まで1メートル位にまで沈んでいました。その時、船尾のそばの海で、ロープが回りに渡してある木製の板(1メートル四方ぐらい)に、すでに何人かがつかまっていたのを見つけ、そこに私も飛び込んでつかまり、沈みつつある船体から、沈没の際に巻き込まれないように、皆で泳ぎながら急いで離れました。この退避の時、海軍の水兵達は、慣れているので、さっとボートに乗って船を離れて行きました。
やがて、富士丸が船尾から沈んでいくのが見えました。そして、船体が海底に着いたと思われるころに、積んでいた対潜水艦用の機雷が「ドドーン」と何発か爆発した音が聞こえてきました。
それから、8時間から10時間、海上を漂流していましたが、その間、救命胴衣が浮いて、顎がこすれて痛かったことを憶えています。この木の板の上には、親にはぐれた小さな女の子が二人乗せられていました。
基隆から一緒だった駆逐艦はあちら此方に漂っていた遭難者の救助に当たっていましたが、私達もその日の午後に収容されました。助けられて縄梯子を昇る時、皆は引っ張りあげられていたので、私は自分で昇ろうと頑張りましたが、最後の2段ほどで足が上がらなくなり、結局、引っ張りあげられました。駆逐艦の船上では、助けられたものの、意識不明だった老人が軍医に人工呼吸をされていましたが、亡くなって水葬にされたとのことです。 
夕方4時頃、駆逐艦でおにぎりを一人一つずつ、その日初めての食事としていただきました。皆、ずぶ濡れだったので、衣服を乾かす間、乗組員から衣服を借りました。私は艦長の浴衣を借りました。駆逐艦では、親にはぐれた子供を預かりましたが、夜になってあまりにも泣くので、水兵さんが来て、気の毒がって連れて行ってくれました。
駆逐艦門司港に入港しましたが、そこで私達は鴨緑丸に乗り換えました。船客はロビーに皆一緒に収容されて、下関港を経て、神戸港までたどり着きました。神戸港では郵船の方が迎えに来ていて、私はK次郎お父様の友達が経営している西村旅館に一晩泊り、翌日、お魚の味噌漬けをお土産にいただいて、東京に向かいましたが、その車中で、一緒に遭難した海軍の下士官と乗り合わせ、隣に座らせてもらいました。私は、神戸で従妹のAちゃんから渡された服を着ていたのですが、下士官に、「顎に傷があるから、遭難した乗客だとわかった」と言われました。東京駅ではS子お母様、IRENEお姉さまをはじめ、親類がいっぱい出迎えに来てくれていたのでびっくりしました。』
引用おわり
私 「すごいわ、今じゃ大事件じゃないの。こんなこと大変なことが実際にあったなんて、当時の新聞記事にもニュースにもなってないの?」
母 「この頃、戦争にも負けそうになってきて、こんなニュースは表に出したがらなかったのよ。何艘もの船が撃沈されて沈んでいるのよ。」
私 「だって日本じゃ大騒ぎでしょう?」
母 「私たち家族はね、郵船から連絡が入ってたから。当時私はお嫁に行って世田谷にいたから、富士丸が撃沈されたという一報を聞いて、松原の実家にとんでいったの。S子お母さんがもう泣いて、泣いて・・Tonyはきっと死んでしまったって。」
私 「・・・・」
母 「私は、『人が死ぬとき、夢枕に立つって言うじゃない、まだ誰の夢にもでてきてないからきっと無事よ、大丈夫よ!』って慰めるしかなかった。心の中ではだめかもしれないって考えがよぎっていたわ。」
私 「それが無事に帰ってきて、本当にみんな喜んだでしょうね。」
母 「沈没当時にTonyが着ていたもんぺを見たけど、漂流中にすっかり色があせていてね。よく、こんな状況で生きていることができたってつくづく思ったわ。」
私 「こんなことが新聞記事にもならないなんて、それが戦争なのね。本当に死が隣り合わせだったのね。今の若い人の感想を是非聞いてみたいわ。」