母の食卓の話題

おてふおばあさまの手紙 1936年

ニューヨークへ立つIRENE, TONY姉妹を見送りに来てくれた友人たち(大津駅 1936年1月) H田K次郎さん一家が、大津のおてふおばあさまの元から当時16歳の母IRENE連れ出して、家族全員でニューヨークへ赴任していった直後のことです。 以下、K次郎さんの…

夏の全国高校野球

しばらく、もう一つのブログ「サンティアゴへの道 巡礼日記」の更新が続き、こちらまで手が回りませんでした。 巡礼はついに目的地に到達しました。 よろしかったら遊びにきてください。 URLはこちらです。 http://d.hatena.ne.jp/INAHO/ここんとこの猛暑で…

1933年上海

8月の8日からは北京オリンピックです。 テレビニュースでも現地の準備風景が頻繁に紹介されています。 それを見ていて・・・ 私 「天安門だわ。 でも見てよ。 景色が薄茶色に霞んでいるわ、空気悪そう〜。 この空気の中を走らなければならないマラソンの人…

別れの日

母IRENE が大津のおばあさまのもとを去る日のことは、私の母方の祖父K次郎さんの手記にあります。 以下、引用 「昭和十年に上海から、こんどは、ニューヨークへ転勤することになった。 わたしは、ひとつには、子供たちにぜひアメリカを見せておきたかったし…

大津のおじいさま

私 「大津のK之祐おじいさまって大津市長の選挙に出たんでしょ?」 母 「出たんじゃなくて担ぎだされたのよ。有力候補の対抗勢力に強引に。 おじいさまはぜ〜ったいにヤダって言い続けていたのによ。 昔のことだからね。 選挙の結果は同数票で、年長者のお…

大津1920年代、庭の桑の実

doziさんがお友達からプレゼントされた桑の実ジャムをおすそ分けしてくださいました。 そのお友達は桑の実を朝早く小鳥と競争しながら4キロも収穫されたとか。 今朝の食卓に早速登場。 ブラックベリーよりひと回り小さな桑の実、KOINOBORIは旅先で桑畑から…

昭和のSL映像館

写真は週末30日、NHK BSの特番、昭和のSL映像館を熱心に見る母IRENEです。 この番組は全国のNHKで保存されている映像から現役時代のSL映像を厳選、編集したというもの。 母は幼少の頃は大津の家のすぐ近くにできた近若鉄道の蒸気機関車を毎日見に行き、従兄…

大津1920年代・親戚の家へ

高輪のH世の家で、従姉たちと 母 「ずっと大津の家にいたわけじゃなくて、たびたびK次郎お父さんの兄姉の家をわたり歩いたの。 東京の高輪にあったH世の家や島さんの家、それから、神戸の御影にあった、T之祐おじさんの家。 学校が休みになったりすると…

大津1920年代・その4・北丹後の地震

昭和2年3月7日午後6時27分に、丹後地方でマグニチュードが7.3の大きな地震が発生しました。 この地震は兵庫県南部地震と規模は同じ。当時八歳の母IRENE にとっては関東大震災に次いで二度目の震災でした。 母 「ぐらぐらっときて、私はお女中に連れ…

大津1920年代・その3・おうむと料亭

私 「家におうむがいたのね」 母 「このおうむはね、ある日大津の家のお庭にある小川のところにとまっていたの。 おちょうおばあさんが大きな風呂敷を持って出て、バサとかぶせて掴まえたのよ。 納屋に古い鳥かごがあったのでそれに入れてしばらく家で飼って…

大津1920年代・その2

私 「こんにゃく鉄道って家のすぐそばから出てたのね。」 母 「そう、おさとさんと一緒にほとんど毎日ように見に行っていたの。 学校で近江舞子に泳ぎに行くときはこれに乗って行ったのよ。」 私 「あら、泳いだの?」 母 「泳がない。おばあさまからきつく…

大津 1920年代・その1・江若鉄道

BSで放送中の『イギリス保存鉄道の旅』で、タリスリン鉄道を紹介していました。 ひとまわり小さなモスグリーンの機関車に赤い客車でコトコト走る列車。 かわいい〜! 機関車トーマスみたいだなと思ったら、実は『機関車トーマス』を作ったウィルバート・オー…

大津の家(1924〜1936)

私 「大津ではどういう子供だったの?」 母 「普通よ」 私 「ちがうでしょ、 学校へは人力車で通ったとか?」 母 「それはない。 小学校のときは女中がいつもついてきたけど。」 私 「女中さんが何人いたの?」 母 「3人だったかな、4人だったかな? その…

大津の家・今昔(1924年と2003年)

私 「これが大津の家での写真ね。K之祐おじいさまとおちょうおばあさまの間にちょこんと座っているのがお母さん。 でも、なんでふとんの打ち直しの写真なんか撮ったの?」 母 「ふとんの打ち直し? ははは、やあねえ、この白いフワフワは白くまの毛皮よ。」…

飯倉1923年

私 「関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日午前11時58分に起きたのね。お母さんは4歳と6ヶ月。地震の時はどうだったの?」 母 「外で運転手に遊んでもらっていたらグラグラっときて、運転手の人は私を抱えてオロオロし、玄関から家の中へ入ろうとしたの…

飯倉1920年?

私 「この写真はお母さんが生れて2歳になる前くらいね。大正9年頃。」 母 「東京の飯倉に家があってね、キャデラックがあったのよ。でもこの車の写真はこれしかないわ。」 私 「記念写真だからめかしこんでいるんでしょうけど、リボンのついたレースのお洋…

春キャベツ満載

この土日はどこへも行かず家事専念。 しかし、どうも仕事が要領よく運ばない。 これも春のせいでしょうか? 母のたっての願いで、まず窓ふき。 これで飛行機がまた良く見えるようになりました。 春キャベツがおいしそうなので、思わずまるごと一個買ってしま…

クイーン・メリー1世号 vs ノルマンディ号1936年

私 「お母さんのアルバムにハドソン川のイギリスのクイーン・メリー号の遠景写真があるわ。 その直ぐ下にフランスのノルマンディ号だという写真もあるのね。 写真見比べて調べてみたけど、このクイーンメリーは確かにクイーンメリーね。 定期客船クイーンメ…

客船Southern Prince とT之祐おじさん

私 「HISACHANがTONY叔母さんのアルバムをCD-ROMに落として送ってきてくれたわよ。 いくつか写真に印刷したから見てみる? この写真、素敵ね。とても昭和11年の日本人の写真とは思えないわ、すっかり洋服が板について。 右端はK次郎おじいさまのお兄さん…

装甲巡洋艦『磐手』1936年

私 「これは船みたいだけど、このものものしい人はなに?」 母 「これは『磐手』(いわて/いはて)という日本海軍の軍艦よ。米国に来たのでアット・ホームと言って、招待客に公開したのね。 S子お母様の妹の義妹の御主人の関係で呼んでくださったの。」 私 …

237 Coligni Ave. 1936(その4)島 秀雄さん

さて、写真は左からH家の母Irene と叔母Tony 叔父YasuとS子おばあさま、後列右端はK次郎おじいさまの上から2番目の姉の息子さん、すなわち母達の従兄である島 秀雄さんです。 実名なのは島さんは多くの人に知られているからです。 『新幹線の生みの親』…

237 Coligni Ave. 1936(その3)

私 「HISACHANからYASU叔父さんの友達の写真送ってきてくれたわ。これはそり遊びをした道沿いに住んでいたお子さん達なんですって。西部劇ごっこ遊びかしらね、顔つきまですっかりその気分で、なんと子供らしいじゃないの。」 母 「YASUは大人の心配をよそに…

237 Coligni Ave. 1936(その2)

私 「YASU叔父さんがついにコメント欄に登場よ。」 母 「あらら、まあ!」 私 「ニューロッシェルの家の周囲のGoogle Earthに叔父さんがそりで遊んだ道とスケートをした池と通った学校の位置を示してみました。黄色の矢印がお家ですよ。」 母 「まあ、YASUが…

237 Coligni Ave. 1936

私 「HISACHAN からニューロッシェルの家のGoogle Earth衛星写真の拡大版を送ってくれたわよ。これだったら良く見えるでしょう。道にある紫色のラインは北にあるハイスクールへ通っていた道筋だそうよ。」 母 「前のお宅の屋根、こんな色じゃなかったわ」 私…

ニューヨーク・ニューロッシェル・ハイスクール1936年

[:H300:right]私 「これこれ、学校もちゃんと昔のまま残ってたのよね。お父さんも数年後に見にいってるし、私たちも1994年に見に行ったわね。あの人の顔みたいな塔が昔のまんまで。」 母 「私は大津の女学校の最終学年の3学期を残してたのよ。でも、なんか…

ニューヨーク・ニューロッシェル1936年

私 「H田一家がニューヨークにたどり着いてからの家探し。数週間のホテル住まいを余儀なくされて、やっと見つけた家がニューロッシェルね。」 map:x286.2020333y40.9207611:hybrid:h250 私 「地図で見るとマンハッタンから電車で30分くらいだし、穏やかな…

Irene

もう、数年前のことですが、母が携帯電話を手にいれメールを始めるというのでセッティングをしていました。 「メールアドレスを作るから、おぼえていられる何かニックネームとかない?」と聞くと「それじゃ、イレーネにして」というのです。 家族の誰もが「…

ふきのとうの煮物

材料は買ってあったけど、あまり料理をする時間がなくて、「甘塩のタラがあるから、シチューの残りに入れてもいいし、バタ焼きでもいいわよ。それからゆでたほうれん草は早めに食べてね。」とだけ母に伝え、「なんとかなるさ」と家を出ました。 夜に帰ってく…

ニューヨーク1936年

私 「ニューヨークにたどりついてずっとホテル住まいだったのね。」 母 「最初は日本人クラブにいて、両親はずっと家探し。そのうち、ホテルを移ったの。ホテルコマンダーっていうところ。」 私 「そっちのほうが安かったからかしらね?」 母 「どうだったか…

Tony叔母の記憶:富士丸撃沈1943年

朝食を前にして、 私 「2月14日のブログに書いた秩父丸の救命胴衣の話で、思い出したってTONY叔母さんからメールを頂いたわ。ほら、叔母さんが半日海を漂流していて九死に一生を得たという戦時中の富士丸撃沈事件の事よ。 記憶を辿って書いてくださったの。…